Wedding Anniversary

時事ネタに強い人間が他人からの支持を得られやすいのが「社会」であり「職場」であり「学校」である。『あのドラマ、見た?』『先週の日本代表の試合、見た?』『今日の朝刊、読んだ?』の問いに『あの展開は予想出来なかったよね!まさかアイツが犯人だったなんて…』や『香川のドリブル、凄かったな!やっぱりサイドバックとの連携がさ…』であったり『読んだよ!今日のスポニチの官能小説、イマイチだったね!ウチ母子家庭だからさ、ああいう展開はちょっと…』といった「新鮮なニュース」に受け答えできる人間が「今この時」をしっかりと掴んでいる人間として「話しやすい」「会話が盛り上がる」といった評価を周囲から頂ける。


大人としてニュースくらいは見なければならない、大人として世間話に使える話題を仕入れておかなければならない、大人として自分が住むこの国に、今日何が起きたのか程度の事は把握しておかなければならない。20代後半にもなって「いやテレビ見ないんで」「いやスポーツ詳しく無いんで」「いや官能小説苦手なんで」といった一言で世間話の一つも生成出来ないなんていうのは、この世を支配している「大人」という人種から見れば「死ね」以外の何物でも無いのだろう。世間様に顔向けしたいのならば、子どもは自身の身体をニュース番組好きに魔改造しなければならない。


思えばこの国は「季節ごとの風習」が多過ぎる様に感じる。年賀状に残暑見舞い、お歳暮に父の日母の日。バレンタインデーにホワイトデー。これに各個人の誕生日や結婚式なんかが加わってしまえば、毎月に1度は何かしらの風習が行われている事になる人間もいるだろう。「世間はこの行事の事で頭は一杯なのにアナタは何故何もしていないのですか 大人のクセに」とでも言いたいかの様な「メディアのそれと無いメッセージ」を、何故頼んでもいないのに無理矢理受け取らなければならないのか、意味が分からない。只々生きているだけで精一杯の人間にはコレは辛すぎる。社会に「ヒト」として認められる為には、一瞬でもフッと気を抜く事すら許されないのだろうか。


生き始めてまだ数年目の子どもという事ならまだ話は分かる。見るもの感じるもの、全てが新鮮な肉塊と精神ならばそれは「あけましたらおめでとう」であるし「メリーがクリスマスしてハッピーがニューイヤー」も、まだ慣れていない出来事なのだから、それは分かる。問題なのは我々「成人」と呼ばれるある程度年齢を重ねた層の人間たちだ。何を毎年毎年、何度も何度も同じ様なことを繰り返し続けての「おめでとう!」なのか。「皆がそう言っているから」「昔からそうだったから」の理由でしか始められない習慣に、一体何の意味があるというのだろうか。


大事なのは「伝えたい気持ち」であるのではないだろうか。本当に感動した言葉、嬉しくなった出来事、心から感謝を伝えたいという気持ち。その想いが募った時に言える「おめでとう」があるのならば、毎年決まった日に行われる「感謝の日」など、本当に必要な物なのだろうか。だから母の日に奨学金の返済とPS3を買った事による出費で何かを母にプレゼント出来るお金が全く無くなった事も「決まり切った日にあげるプレゼントなんて意味が無い」であるし、あけましておめでとうメールが一通も来ないのも「そんな定型文の様な取り繕ったメールなど見たくも無い」として、大手を降って『この世の記念日』という物を迎えられる。何故か。私は心が強いからだ。

私の意思という物は「日付け」なんて物では決して揺るがない。揺るがせる金も気力も無いからだ。「言い訳」は死ぬ程あるけれど。因みに、とりあえずの私の時事ネタは今のところ「お金が無い」と「携帯が静か」だ。あと「スポニチのエロコーナーはどちらかと言えば好き」。正月に読むスポニチエロコーナーならば、尚良い。