VS生きがい

何物にも代えられないはずの「今日」を生きているはずが、「あの時こうしていれば良かった」「何故そんな選択が出来たんだ」という後悔を只々飲み込むだけの日々では、「今を生きる」などという大それた進言はこの身に余りまくる死の5文字であるし、かといって「過去を振り返る」事で反省を自分自身に促すのかと聞かれれば全くそんな事はなく、『気力』という生きる為のガソリンを柄杓で地面にぶちまけるだけの日々なのだから、「生きる」という事の意味が分からなくなってしまうのも、至極当然の成り行きなのではないだろうか。


ここで「元気出せよ」と、自分の肩でもポンと叩いてやりたい所ではあるが、私のこの身は一つしか存在しないので、自分自身を元気付けてあげる事すらなかなか難しい。では未来に生きてみてはどうか、と少し考えてはみたが「アイツ未来に生きてんな」という台詞は、何だかライトノベルの主人公の親友ポジションの人間が正に言いそうな気がする。うすら寒いのでコレは無しだ。

「楽しかった思い出など何も無い」と言い切れる物なら言い切ってしまいたい所ではあるが、残念ながら私の人生においては、楽しかった思い出の一つや二つくらいであれば簡単に挙げられてしまうのが関の山だ。「両親が死んだ」クラスのレベルの高い不幸であれば「親戚の家に引き取られて義理の妹ができた」くらいの物語は私にも訪れたはずだった。他人の不幸が、『苦難を乗り越えた先の大きな幸せが約束された不幸』に思えて仕方が無い。


今の世論においては「友達が少ない」「どちらかといえばインドアだ」くらいに言っておくのが逆に「私も!私も非リアなの!」と持て囃されるのが常である。「ある程度の不幸」が他人からの好感度を上げる為の手っ取り早い手段と成り得るのならば、例えば「何故あの時もう少し優しくなれなかったのか」「何故あの時誰かを許す事が出来なかったのか」「何故工業高校に進学したのか」「何故あの時もっと勉強してサキュバスが性技を磨く魔族の学校に進学しなかったのか」といった後悔という名の不幸は、『誰かに言うまでも無い』というレベルで少し中途半端な様に思えるし、例え「さあ不幸自慢」と人が集まる場で話してみても「私も!私ももっと勉強して肉食系の強引な若社長ばかりが通う学校に進学したかったの!」という会話の切り口であったり、持て囃され方であったりになるの場合になる事もあるかもしれないが、まずこんな女は気持ち悪いので、やはり中途半端な不幸は他人に言うべきでは無い。要は「クソの役にも立たないままに自分の中で消費されていく不幸が多すぎる」という事だ。


「生きがい」という言葉がある。これは「辛い」「キツイ」という過程を乗り越えた先の達成感によって「生きてて良かった」「努力は無駄では無かった」と、辛い過去さえも自分の中で「良い物」として消化される。「ある程度の不幸」が「ある程度の幸福」として還元される、この「生きがい」ほど、不幸を食い物にしてくれるシステムを私は知らない。もっと人間の仕組みが簡単に生きがいを感じられる様に出来ていれば良かったのだ。「職歴が無い」→「老いていく家族を家でよりじっくり観察できるぞ!」 「母が倒れたら生活できない」→「人間ってどこまで痩せ細る事ができるんだろう?」とか。


書いてて思ったが、精神的にドMの人って毎日が楽しいのかもしれない。日々の辛さを感じながらもそれを飲み込んで「パパママ産んでくれてありがとう キョウモキレイナソラ」とSNSで発言したりインスタグラムに空の写真をアップロード出来る人間は、自虐思考の変態人間という事だ。自称変態の人がインターネット上に沢山いる事も納得がいく。彼らは生きがいを感じたかったのだ。