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何がTETUGAKUだ

「理由」が何か目的を達成する為の『原動力』として非常に燃費の良いガソリンになってくれるのは間違いない。何となく生きる、何となく働く、何となく勉強する、では、やはり脳髄はなかなか上手い事動いてくれないし、何故神は人間にわざわざ搭載したのか意味の分からないオートマチックシステム「忘れちゃった」「飽きちゃった」「帰りたくなっちゃった」が「何となくやってる行動」には、どうしても働いてしまう。

社会も社会で「どうして御社を志望したのか」「本校に入学して、あたながやりたい事はなんですか」などなどの「どうして?」を平気でポンポン投げかけて、我々の心に土足でドンドン乗り込んでくるのだから、本当に社会はデリカシーの欠片も無い。

しかもそこで「金が欲しいから」「世間体を気にして」「母が...倒れて...入院費が...」などと正直に言う事は決して許されず、一人称も「オイラ」から「私」に変え、「やんす」という語尾を使う事も禁じられ、更には自分の考えを上手くススマートに答える事が出来ないと、お給金も受け取る事も出来なければ、国立大学に入学し「人生の攻略本」を配布してもらう事もできない。「高尚な理由を持つこと」が良い人間になる為の必須課目になっているのは間違いない。


ただ、本当に「理由」の為の「行動」ばかりを行ってきたのかと自分に問いかけてみると、やはりそんな事は全く無い。大学生だった頃にアルバイトしていた映画館では、面接の際に「ずっと前から映画館で働いていみたかったし、ここの雰囲気が好きだったから」と言ったが完全に大ウソで、実際は「映画館でバイトしてると人に言えばなんかモテそうだったから」が正解。ただ、それから映画館でバイトする様になっても全くモテる気配が無いと気付くと、だんだん本当に「自分は映画が好きで映画館でまだ働いてるんだ!」「恋愛映画を1人で見にきた成人女性と恋に落ちる可能性だってあるんだ!」「まだまだチャンスはある!」と思い込む様になっていたから不思議だ。後から理由付けというのは、本当に「後だしジャンケン」の様に圧倒的な強さを誇る。そんな行動に果たして意味はあるのかと聞かれれば、多分無い。


ただ誰だって「何となくやる」という事を許容するのは難しい。「俺たちはただただベルトコンベアで流れてくるお刺身の上にタンポポを乗せていればいいんだ!」という風には人間、なかなか割り切る事は出来ない物だ。「自分は何故こういう行動を取るのか?」「この行動は誰かの為になっているのだろうか?」「自分はこれで幸せなのだろうか?」と思い詰めてしまうのであれば、例え不順な「後付け理由」であっても、精神的には充分すぎる効力はある様に思える。

私も「コレは自分は何となくやってる」でハッとなるのが怖いから、とりあえず理由に困った時は「自分は将来モテたいからコレをやるんだ」と自分で自分に暗示をかける様にしている。「何故殆ど読めずに返すだけなのに本を借りに図書館に行くのか?」「文学青年を表面だけでも気取って勉強しに来た女子高生にモテたいから」「何故毎月ダヴィンチを喫茶店で読むのか?」「変な女に『アッあの人、いつも同じ日に来てる...何の本読んでるんだろ...』と思われたいから」などなど。そこそこ効力がある気がするので、ベルトコンベアで流れてくるお刺身の上にタンポポを載せるお仕事の人も、もっとヴィジュアル面に拘りを見せる様になれれば、生きた心地も戻ってくると思う。一眼レフを首にぶら下げ、Newton片手にタンポポを鷲掴みすれば、もうそれだけで良い。きっといい人生を送れるはずだ。