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Feelings

年を取れば取る程、感情を抑える様に生きていかなければならない、とは思いませんか。「少年の心を持った様な壮年の男性」がチョイとモテるのは、元々育ちきった男性は「少年の様に笑わない」し、「少年の様に何かに熱中したりしない」し、「少年の様に半ズボンを履いて外を走り回ったりしない」という価値観から生まれてくる物だからなのでしょう。慎み深く、陰の様に、それでいて誰かや何かをしっかりと支えてくれる存在。怒らず、笑わず、理論的で、それでいていつでも正しい。それが世論の求める年の取りきった男性像であるのではないか、と感じます。私も「喉に魚の骨が引っかかった」と夕飯時に言う事で、祖父と祖母が大丈夫か大丈夫かと大騒ぎし、本人もずっと台所を青白い顔でウロウロする様な父親など見たくもありませんでした。ここで理想的な父親であれば「夕飯が終わった後に一人黙って洗面台にコップ片手に立ち尽くす」という選択を取ったのだろうと思いますし、その様な父親であれば例え私でも「アラかわいらしい」と少しばかりの愛着でも湧いた可能性だってあるのです。


ですので、大きな大人が感情を剥き出しにしてテレビの画面に向かって一人でツッコミを入れていたり、スポーツ中継を見てテンションが上がったりしていたり、勝手に一人で寝てたりしていると心の底から「馬鹿か」と、いつからか思う様になってしまいました。肉を食う人間が馬鹿に見え、元気の良い大人を見ても何だコイツと思い、寝ている大人すらアホかと思える。そんな気持ちがいつでも心の根底にあるのか、私は家族の前では一言も喋らず、リビングでは一切の感情を見せる事の無い肉塊になってしまいました。大学生だった頃は同僚に「真顔で冗談を言うから只々怖い」と言われた事もありましたが、今このブログを書いている今も、そしてTwitterをしている時も、限りなく感情を押し殺し、只々キーボードを押し続けています。


しかし、まだ一発逆転の可能性はるのです。そう、この世には「ギャップ萌え」という言葉があるでしょう。降りしきる雨の中、すっと傘をダンボールの中にいる猫に差し出す2mリーゼントの不良、いつもは高飛車な態度のご令嬢のフッとした時に見せる弱い心、そういう物に、世論は途轍もなく弱いとよく聞きます。そう、結局はそういう事なのです。いつもはチャランポランな父が、ここぞ!というばかりに見せた無意識的な優しさに惑わされて、母もどうかしてしまったのかもしれません。そういう「あちら側が勝手に勘違いしたキュン死」にかけるしか、この心で善良な市民を惑わせる事は叶わないのかもしれません。捨て猫に傘を差し出した不良も、実際は「あの番地にあるダンボールに入れたビー玉の色が赤だったら計画実行のサイン」にたまたま猫が入っていて引いただけかもしれません。いつもはツンツンしたあの娘も、誰かに見せたその表情は「金落ちてないかな」のため息だったのかもしれません。


このブログのあり方に迷っている時も私にはありましたが、もうその可能性にかけるしか道は残こされてはいません。「わあ!エスキさんってコンプレックスの切り売りをしながら、モスバーガーで『大きなグラスに水を下さい』って言って店員さんに笑われたりしてるんだ!私なんだかファンになっちゃった!」の様な。この場合どちらがギャップ前フリなのか区別が付きせんけれど。