Ending

「建設的な話し合い」という物で言葉を複数人で、それこそアドリブ演奏の様に紡いでいく事の難しさといったら無い。


大事なのは外面ではなく内面だ、とは良く言うが、その内面を誰かに表現する為の外面的な「言葉」という道具が上手に扱えないとなると、どれだけ清い心の持ち主であれ、それこそ宝の持ち腐れになってしまう。よく分からない所でおかしな人気があるあの「キレイなジャイアン」という存在だって、あの容姿で「のび太くん、ドラえもんくん、さあ仲良くしよう」というセリフを発するから「キレイ」なのである。どれだけ純真な心の持ち主であっても、それが「純真」という事で、インターネットの掲示板で少し煽られただけでそれを真に受け我慢が効かず怒り出したり、「大人になって社会の荒波に塗れて汚い人間にはなりたくない」という事で、部屋に引き籠り母にジャンプを買ってきてもらう時に発する「オイババァ」が声を発する唯一の機会である様では、全く意味が無いのである。



会話の中で必須になってくるのはやはり「オチ」であると感じる。勿論、それが抱腹絶倒の爆発オチである必要は全く無い。ただ、何かしらの「会話の落とし所」であったり「結局何が言いたかったのか」という事を端的に、しかし相手には必ず伝わる様にして「END」という幕引きを、必ずどこかに挿入しなければならない。建設的に土台を組み、柱を立て、壁を作り、屋根を組み立てる、という一連の「会話」に至るこれらの行動を「モテる人間」という物は無意識的にやり遂げてしまうのだから恐ろしい。話す事が面白かったり、タメになったり、刺激を与えてくれる様な人間が、逆説的に「心がキレイ(または豊か)な人間)として持て囃されるのだから、やはり自らの言葉が、自らの心を浄化させる事は間違いないのだ。自分で汚し、自分で浄化させ、そして自分で勝手に気持ちよくなれる。こんなにも自己完結型のエコな人間が、この世に他に存在しただろうか。


私も知っている人と出会う度に「何かしらのちゃんとした話を会話に盛り込まなければならない」という強迫観念に駆られ、だんだんと人と会う事自体が億劫になり、「気付かなかったフリ」をする為に眼鏡を外し、他人の顔の識別が出来ない様にして外出したりと色々な工夫を試してみた時もあったが、「良い人間」になる為には、只々自分の都合の良い言葉を発してるだけでは、恐らく足りない。もう一歩、巷に溢れる言葉と言葉の喧騒に踏み出してみれば、「相容れない意見」という物と必ずどこかで出会ってしまうだろう。例えば映画を複数人で鑑賞した時に、感想が食い違ったり、「ここは譲れない意見」という物があったり、「まあ結局は人それぞれだよね」と最後に言う人間を殺す様な場面と出くわした時に、一体我々はどうするのか。そして最後には議論の妥協点を探り「まあ色々喋ったけどこの後はcaffeでも行こうか」などと言える雰囲気を作り出せる所にまで持って行かなければ「END」の幕を下ろせない。

「キレイな心」を手に入れるまでの工程とは、こんなにも手間のかかる物ならば、ドラえもんの道具に「人の心を浄化させるヤーツー」があるのも、まあ納得がいく。そしてここまで手間のかかる「会話」を無意識的にやってのける「モテる人間」という物は、どこか人間という枠組みに収まり切らない「人間の姿をした妖怪」の様な物だと再確認した。つまりこの世の女性は皆が皆、妖怪に恋しているのだ。全世界の人口の半分が水木しげるの様なこの世だ。いや、そんな事は無いけど。