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Draw phase

「好きな物で自分を語れよ」という言葉があるが、これも世の為人の為、自分も社会の一員になるにはネガティブな事も言っていられない、と無理やり作った「好きな物」で自分を語っても、そこに意味など無く、残る物は只々虚しい思考の絞りカスでしか無いだろう。嫌いな物で自己を形成して何がいけないのか。語るべき自分の残像を、嫌いな物を語る自分に見い出して誰が損をすると言うのか。「他人の不幸は蜜の味」という言葉にもある通り、他人は誰かの不幸をいつだって求めている。誰かの失敗を見る為に呼吸を続けていると言っても過言では無い肉塊に「ポジティブ」という言葉は、紅茶にレモンとミルクを一緒に入れる様な物であり、出来上がった「今さっきまで飲み物であったドブ」はすぐ流しに捨てた方が良い。不幸の需要はいつだって誰にだってある、という事を頭ごなしに否定する様な大人にはなってはいけない。


しかし、私にも「何故私には不幸がやってこないのか」と考えた事がある。アニメや漫画の世界では「とんでもない不幸」がいつだって物語を始めさせてくれるし、その10話後くらいには件の「失った不幸」と同等、いやそれ以上の「得た幸福」がやって来ている。子供の頃に読んだ漫画では、不幸にも不良達に虐められていた虐められて当然の奇抜な髪型をしている少年が、古代の不思議なネックレスを首に掛けると、それだけで「もう一人の自分」が人格として現れ、その不良と友情を育むことに成功し、そして別の不良を懲らしめたり殺したりしていたら「カードゲームの天才」として、いつの間にか世界中から注目される存在となっていた。「不良に虐められる」という不幸が「カードゲームの天才と持て囃される」という幸福に繋がっているのである。


ところが現実はどうだ。足の早いクラスメイトに「みんなでスーパーマリオRPGがしたいから家まで来て欲しい」と頼まれ、自転車で片道25分の道程を経てクラスメイト達が集まる家屋にやって来ても「ああ、ありがとう それじゃ来週帰すわ」と言われ玄関でその場で帰される。「みんな」の中に私は入っていない、という不幸に堕ちていた私が遊戯王カードを始めても、友達が増え大企業の御曹司をゲームでボコボコにして精神分裂をさせる所か、今度はクラスメイトにカードを盗まれ、盗まれた分のカードを買おうとおじいちゃんにお小遣いをせびると、その日の夕飯でおじいちゃんが母に「孫に2000円渡したからその分お金が欲しい」と義理の娘にお金をせびり、30分後に私が大激怒され、そして1000枚程に溜まったノーマルカードで16つ程デッキを作り、1人遊戯王カードトーナメントで休日を6時間潰す。「幸福の噛ませ犬」であるはずの不幸が何て事は無い、その不幸の狂犬にもう何度も咬み殺されているのが現状なのだ。


「好きな物で自分を語れよ」とは言うが、しかししかし、やはりそうであるべきなのかもしれない。不幸は不幸でも、その不幸な話に「面白い」という効能があるかどうかで、意味がかなり変わってくる。「ゲームの運び屋さん」であった私の事など、「ゲーム持ってこい側」だった皆さんはどうせそんな事実があった事も、そして私の存在自体も忘れ、今頃社会人として、勤労意欲の塊として、一人の恋愛戦士として今日も元気に幸福の中に生きているはずなのだ。私だけが不幸という巣でくすぶったり、表現を捏ねくり回して楽しんでいたりしている、という事を思えば思う程「面白さ」なんて物はドンドン私の中で死んでいく。話す方も聞く方も全く楽しくない「嫌な思い出の話」なら「この前ハンバーグを作ったけど焼いて割って見たらまだ赤いままでした!」とか喋った方がまだ誰も損はしないと思う。この前ハンバーグを作ったけど、焼いて割って見たらまだ赤いままでした!赤いままでした!