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Accusation

文字列を日常的に書く事が当たり前の様な生活にいつの間になっていたのか、全く思い出せない。

Twitterにブログにバイトにメールに。賃金が発生する案件もあれば、全くの無償な癖にへーこら言いなが文字列を記した時もある。そんな後にふとツイログを見て見ると(Twitterでの自分の投稿した文章を見返したりこれまでのTwitterの使い方であったりと、色々なデータを見る事のできるサイト。「ついついログハウスを見ると、コレが燃やしたくなっちゃうんだよね~」という精神に異常をきたした放火魔による自白が閲覧できるサイトの事は指さない)「一日のTwitterへの平均投稿文字数 1200文字」と表示される。コレにブログやらバイトでのゲームコメントやらを足せば3000文字は軽く超えてしまうだろう。


Twitterはまだ良いとして、このブログやバイトでは同じ言葉や言い回しはなるべくは書かない様にしているから、それはもうあっという間に言葉のキャパシティが尽きる。私という人間は、もし人間が完全に機械によって管理、区別される様な世の中になり、人間を2種類に分け、それぞれに適した生活環境を義務的、機械的に与えられる様な社会になってしまった際にその区別方法が「一日中何か考え事をしていて言いたい事や感じた事などの意見を常日頃持っている派の人間」と「一日中何も考え事などしていないし言いたい事や感じた事などの意見を常日頃全く持っていない派の人間」に分けられるとすれば、圧倒的後者の人間として区別され、「前頭葉の要らない人間」として人間牧場で飼われる事になる様な人間だ。そしてこの様な作業は他人からは「好きでやってるんでしょ?」と言われてしまう様な案件だ。そういうドライで「核心を突いたでしょ今?核心を突いたでしょ今!?」という様な「言ってやったぞ」感もそれはそれでムカつくので、「そういう人間じゃ元々無いのに環境が最近変だ」などとは他人にあまり言えない。私の片手で数えられる程の数の友人を、私の不用意な発言が元で減らす事になってはいけない。


今こうしてTwitterやブログを書いている時には「楽しさ」や「心の充実感」みたいな物が確かにある(ある時もあるし、悪意とか殺意とか非道徳的な事しか覚えない時もあるけど)ので、そうは言っても、そこまで「苦」とは感じない。感じないのだが、ただその様な思考的にも面倒臭がりの私が何故ここまでせっせと毎日Twitterを起動させ、3日に1回ブログを書けているのかが、全く理解できない。子どもの頃は「日常的に何かする」という事を意識して行っていた事など無いに等しい。趣味だと思っていたゲームは今考えると、学校から女子に泣かされながら家に帰って来たと思いハッと気が付くともうニンテンドー64のスイッチを入れ振動パックを股間に当てて喜んでいただけの様な気がするし、毎週読んでいたジャンプやマガジンやらの漫画も「親が買って来たから」という理由で読んでいただけで「アッ漫画だ」と思いハッと気が付くともう座布団に寝転びながら手がページを捲り「今週こそいちご100%で女の裸を見るんだ」とありもしない夢を見ていただけの気がする。

アレが「楽しさ」とか「心の充実感」とかになって私の「毎日ソレを行なう為のガソリン」として機能していたのか、今思うとかなり怪しい。「余った時間が膨大にあるから」と「エロ」がその理由の殆どを占めていたとすると、当時の私の趣味は「時間つぶし」と「女の裸体求め」になる。小学校の文集には絶対書けないので、とりあえずあの頃気付かなくて良かった。