ヲタクでは拙者ござらんので

コレも低所得者の家に生まれたる所以か、それとも育ちの悪さたる所以か。「お上品さ」の欠片も無いような家庭に産まれたから、「丁寧さ」が微塵も無いような環境に育ったから、と言えるのならば、どんなにそれが有難いか分からない。「口が悪いという事への言い訳」を、初対面の人間への第一声で、たただっ広い会議室での就職面接で、労働時でのお客さんへの接客で「つい貴方の事を『お前』と呼んでしまいましたが、これは育ちが悪かったせいです。親が全部悪いんです。」と言ってしまっても、初対面の人間からは「礼儀が無い人間」と思われ、人事部の人間には「社会には出られない人間」と蔑まれ、お客さんには「もうこの店には来ません」と尤もな言葉を返されてしまう。

どんなに言葉に気を付けても、その「粗暴さ」みたいな物は不思議な物で「何となく」でも相手には伝わってしまうから、コレは非常に厄介だ。ちょっとした挙動、ちょっとした動作、ちょっとした癖。言葉にはせずとも伝わってしまう物は伝わってしまうという事だろうか。「低所得者遺伝子」が強く強く遺伝子に組み込まれている人間にとっては、モラルで、そして倫理で、自分を去勢したつもりでも、それが「何となく」で相手に伝わってしまうのならば、そこに何の意味を見出せと言うのか。

やはり私も人間なのである。人間である以上、私は人から好かれたいと思うべきであるし、それを行動として移すべきなのである。しかし「思った通りに口が動いてくれない」「望んだ通りの挙動が出来ない」というこのポンコツな魂の入れ物では、その願望に関しては難易度設定はいつでもベリーハードの様だ。いくら「コミュニケートの練習として」という言い訳で購入したアマガミで「知らねえよこの女!面倒臭えよ!」と私が言っても、それは相手の女性には伝わる事は無く「何なんだそのメロンパンみたいなジャケットは!」とデート中の画面に向かって叫んでも、画面の中の橘君はそんな事はおくびにも出さず、何度やってもクリスマスの温泉セックスでその物語は幕を閉じる。これでは全く練習になってはくれない。私が何を言っても、大抵は好かれ、トラウマを一緒に克服し、温泉でセックスをする様では何の意味も無いのである。「言葉ひとつ」「動作ひとつ」「癖ひとつ」をしらみつぶしに見直し、根っこから「私」という人間を作り直す事が出来なければ、この魂の入れ物はいつまで経っても「低所得者は黙って中古のアマガミをしていろ」という言葉の前には、只々頷く事しか出来ないのである。

しかし「お前」以外の呼び名で呼ばれた事が殆ど無かった人間にとって、自分が異性を下の名前呼び、「キミ」呼び、「ちゃん」呼びなどは非常に難易度が高い。大体そういう呼び方は「そういう呼び方を人にしても大丈夫な人間」で無いと、なかなか世論に認められる事は難しい。泥人形に「~ちゃん」と呼ばれては誰だって気味が悪いに決まっているのだ。少しずつ、少しずつ、全ての女性が泥人形にちゃん呼びをされても不快感を抱かない様なコミュニティ作りを行わなければコレは不可能だ。一家に一台、喋り、意思があり、そして気持ち悪い泥人形の存在。「コレなら低所得者で粗暴な男性に話しかけられた方がマシ」と女性の遺伝子に刻み付ける程の衝撃を与えられなければ、私の「低所得者遺伝子」とはプラマイゼロには届かない。遺伝子レベルに刻みこまれるまでの年月を経て、私が存命しているかは微妙な所だが、これからは「より最底辺、より最底辺」を合言葉に、人間の意識改革を進めなければならない時代が必ずやってくる。「相手が中学生だからと舐めた接客態度を取っていたら後ろからコワモテの親御さんご本人登場で白目になる」という遺伝子を殺すまで、何十、何百年の年月がかかるか想像も付かないが、もうその頃には私もいないし、私が働いている職場も無いし、アマガミも「原始人たちのよくわからない化石」と未来人たちに保管されているのかもしれない。アマガミで初めて女を知る未来人の事を考えると、私も嬉しさが込み上げては来るが、それはまた別の話だ。