本気でとかそういう

本気と書いて「マジ」と読む、なんて良く考えたらおかしくありませんか?本をどう読めば「マ」と読むのか?気をどう読めば「ジ」と読むのか?そしていつの間に、16bitしか容量の無い私の少ない語彙にすんなり入って来て、何をすんなり私は「マジで!」とか発しているのでしょうか?



良く出どころの分からない単語を平気で自分の言葉として使えるという事は、例えば100g52円とかのたまにスーパーで売っている変に安いよく分からない鳥肉を喜んで家族で食べる様な事であり、どこの生まれかも分からないもしかしたら少年院上がりの強姦殺人犯かもしれない輩の「絶対何もないから!ただここに判を押してもらうだけだから!」という言葉にも喜んで実印をよく分からない書類に押す事であり、「やりたい事を見つけたいんだ!」という良く分からない理由で、もしかしたら『自慰がいつでも出来る』という只それだけの理由で大学進学を願う息子に高い学費をつぎ込む様な事でもある。「よく分からないけど、皆使っている言葉だから」「よく分からない肉だけど、子どもにはお肉を食べさせてあげたいから」「よく分からない進学理由だけど、皆行ってるし子供に自慰もさせてあげたいから」などという、「よく分からないけど」にこの世は侵略されちゃいませんか?しかもそれが無意識的に生活に潜り込んで来ている、という怖さ。



例えば、いつの間にか「カップル」という単語が出て来て「アベック」という単語が死んでしまったり、「ボトムス」という単語が出て来て「ズボン」という言葉が死にかけていたり。いつの間に我々は扱う単語さえ操作されているのでしょう、いつの間に我々は「ズボン、だって・・・」とニヤニヤ笑いが表情に現れる様に魔改造されたのでしょう。私も大学生であった頃は周りの人間の「~じゃね?」という言い方であったり「ウチらは~」という言い方であったりに「現代人振りやがって、逆に田舎者っぽいわ馬鹿」と思った物ですが、時とは残酷な物で、そういう環境に2年程いると私も「~じゃね?」も「ボトムス」も「シャレオツ」も「ザギンデシースー」も「オバランギュル」も「ポリンギー」も「ペチョラ」も(最後のは造語です)言う様になってしまっていました。真の田舎者は、この私だったのです。環境が人の脳髄を変えてしまう、この時程「洗脳」という2文字を間近に感じた事はありませんでした。



語彙を魔改造されてしまえば、後は廃れ、今度は逆に若者に「マジで、だって・・・オッサンかよ」と近い未来に笑われるだけ。今度は未来の若者の「この前母ちゃんが俺の部屋でポリンギーしてきてさ~参ったよ~」「えっ!ソレ、オバランギュルじゃん!大丈夫だった?」「何とか」の様な意味不明な会話に、良く分からないなりにも、何とかついて行こうとしなければならない時がやってくるのでしょう。「この書類はペチョラだから!だから判だけ!判だけ!」という保険金詐欺も、いつこの身に降りかかってくるか分かりませんからね。