変化球しか投げない

「変なヤツだ」と言われても全く嬉しくなくなったのはいつ頃だったか。「変わったヤツだな」と人に言える人間は「この人ともっとお近づきになりたい」からそう言うのでは無い。「自分より下の位置に属する人間が出て来たぞ」という「ああ見下せるヤツが出て来てよかったよかった」という意味で言っている。だって私がそうだから。「個性を大事にしましょう」と言われて育てられた我々であるはずが、いざ「常識のレール」から外れた人間を目の辺りすると、途端に含み笑いが顔に浮かんで来てしまう。



会って話すのでは無く、出来れば「マジックミラー越しに観察するくらい」がちょうど良い、と思う人も私にはいる事はいるが、例えば逆に、私が実際に誰かにそういう対象で見られたとするのなら、ショックで多分右心房が死ぬ。人を見下すという事が悪い訳では無い。「見下していますよ」という事を気付かせてしまう事が一番悪いのだ。その笑いが失笑ならそれが失笑だと気付かれない様に失笑して欲しい。その慰めが自分より劣る人間を再確認する行動なら「見下し指差し確認、完了しました!」という事を気付かせない様に指差し確認して欲しい。「デリカシーある見下し」が見下し側にも見下され側にも優しくあり、平和に日々を送る事への手助けになってくれるはずだ。



「優しい」という事が「妥協する」という事ならば、やはり「自分の嫌な気持ちを隠すのが上手い人間」というのが良い人間であり、優しい人間であるとされるのだろうか。女が冴えない男に対して良く使う「優しそうな人間」という表現は「褒める所の特に無い無個性な人間へのごまかし」とされ、男側もそんな事は重々承知しているのにも関わらず、ブスの顔を立てる為にも、そして周りにいる他の人間との未来のセックスを望むが為に、わざわざ嬉しそうな素振りを見せてこの場をやり過ごさなければならない、というこの一連の流れ自体が現代社会の打破すべき要素の一つである事は間違いない。



・・・間違いないのだが、「優しい」という事の少し「諦め」に似た様な所であったり、少し残酷であったりする所に、しっかり向き合った上でのそういった表現ならまだ分かる。分かるが、つまりは「優しそう(自分の気持ちとちゃんと向き合う事ができ、一口に例えば『大らか』と言っても、それは自分の嫌な部分としっかり折り合いを心の中で付けているという事で、自分の嫌な部分、他人の嫌な部分も『大らかになれる』という事でもあり、相手を尊重し、なおかつ感情をも完全にコントロールでき、精神的にも成熟し、私たち女の子をちゃんとリードしてくれ、どんな話もちゃんと親身になって聞いてくれ、かと言って放って欲しい時は放っておいてくれる俗に言う『女心』という物さえ完全に理解している大人の男性)ですね!」という「優しそうですね!」である可能性は書いてて何だか限りなくゼロに近い気がしてきた。うーん、じゃあ私にはせめてバレない様に「優しそう(以下略)ですね!」っぽいなー分かってそうだなーと思わせる様な、そんな表情で接して下さい。「変な顔して、変わったヤツだな」と思うので。見下しとデリカシーの重ねがけで、我々の世界を回して行きましょう。ね!