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不毛な大地にひとしずく

日々、邪魔だと感じる物を遠ざけるだけの生活を何十年も続けている様に感じる。なすがままに、あるがままに。世間の流れに身を任せる様に生きていたいとは常日頃思うが、「変わっていく」とは一口に言っても、それが「外から」の変化であればまだしも「内から」の変化であれば、またコレはややこしい。特に思春期というのは、一番その風当たりに強く晒されてしまう時期なのではないだろうか。変化を望む気持ちと、変化を望まれる環境と、現状を失ってしまう様な「名残惜しさ」に似た、ごちゃ混ぜになった様な何か。



色々な感情に板挟みにされては「そういう物だから。ソレが思春期だから。」と突き放される。この世に生を与えられて十数年という未熟な精神構造を持つ肉塊に、世界は多くの問題を与えすぎ、多くの答えを欲しすぎているのではないだろうか。例えば「おちんちんがギュインとなる」とか「おちんちんがお父さんと同じ形状になってきた」や「おちんちんのシワの数が気になる」という様な股間関係の問題で、自覚し始める性癖の問題で、そういう体質の問題でイッパイイッパイくらいでいるのが、正しい青少年の姿であるべきではないのだろうか。処理したティッシュはどうするのか、エロ本は実物を持って保持をするのか、それともデータ化をするのか、親が必ず部屋に来ない時間帯はあるのか、丁度良い座椅子はあるのか、匂いはどうするのか、などなど。毎日の様にやってくる不安とストレスに耐えながら生きる未熟な精神に、それに加えて進路や何かを考えさせるなど、いくらあっても身体が足りないだろう。更には吹き出物も出てくるわ髭が生えてくるわで、子供というのは本当に本当に忙しい。



全ての箇所から毛が生えつくされ、ティッシュの処理の仕方をそれこそ怒られて怒られて、傷付いて傷付いて、それでやっと「女は嗅覚がヤバイ」「父は子供の自慰が見たい」という事を学習して、やっと小学校を卒業する様な、そんな余裕ある青少年期を今の子供たちには体験させてあげるべきなのではないだろうか。理解ある社会であれば良かった、そんな社会ではあれば私もニキビで出来まくった顔に父に無理やりクレアラシルを(そういう使い方では恐らく無いのになんせ元DQNだから)顔全体に寝返りも打てない程これでもかと塗りつけられ、後で誰も見ていない所で履いていた靴下で顔を毎晩毎晩拭う事になる羽目も体験せずに済んだのだ。そして顔がまた不潔になりニキビが出き、父が怒り、クレアラシルを箱買いし、塗りに塗られ、そしてまた靴下で拭う。社会が子供にもっと寛大であればある程、私のニキビは減ったし、おかしな色に黒ずんだ靴下も出現しなかった。未来ある子供達にはクレアラシルを買わせてはやられない。痛風を気にしながら「中学校どうしよう」とやっと心配させてあげる様な社会構造の変革が必要だ。



ところで今日のテーマは「ふ」だったはずだが「不潔」になったり「吹き出物」に寄りかかりそうになったり「不遇な子ども達」になったり自分で何がどうなっているのか全く分からないまま時間だけが過ぎていった、そんなこんなで悩んでいる内にモスバーガーの店員さんが「もういい加減帰れ」のお水を黙って机の上に置いていってくれたので、もう「フレッシュネスバーガーに行きたい」でいい。フレッシュネスバーガーに行きたい。