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肉から始めるエトセトラ

肉が好きだ。死んだ牛や死んだ鳥や死んだ豚の肉が好きだ。私はあまり裕福とは言えない家庭に育ったが、炭酸飲料でお腹を膨らませる事で満腹感を捏造する様なド貧困の家では無い、つまり中流家庭の家に育った(と思う)ので何かしらの肉が2日に1度、食卓に出てくる頻度の中で幼少期を過ごした。大人になってからはよく焼肉屋にも行く様になった。だが大好きなはずの肉に対して私が最近思う所、ソレは「肉を食っている奴が馬鹿に見える」という一種の網膜の病だ。



肉を食っている奴が馬鹿に見える、何を言っているか分からない者もいるかと思うが、これに尽きるのだから仕方がない。恐らく「本当に馬鹿であった幼少期からの自分の好物であった肉から解脱する事で自分が大人になれたのだ、という実感を欲するが為の肉食う奴馬鹿理論」という事であるのだろう。鉄板の上で肉を焼けるのを待つ姿勢が馬鹿だ、良く分からない葉っぱを肉に巻いて全然ヘルシーじゃないのに「これで食べるとヘルシーで美味しい」みたいな思想に転がされてるその顔が馬鹿だ、白飯の上にタレにくぐらせた焼いた肉をワンタッチ置いて食った時の少しタレが付いて茶色になった白飯がもう馬鹿だ、おばあちゃんのパート代から出たお金で私の誕生日に出て来た100g2000円のステーキを「今まで食べてた肉と何か違ってヘン!マズイ!食べたくない!」と叫び家族全員にお通夜の様な雰囲気を作り上げた肉も馬鹿だ、私も馬鹿だ。女性が焼肉を食べた後の脂でてかった唇はエロい。ソレは別にいい。


肉のネガキャンを終えた所で私が推したいのはやはり魚だ。魚を食う奴はシュッとしているイメージがある。例えば定食屋。「オバちゃん!オレ生姜焼き定食!大盛り!いっぱい食べたいから生姜焼き大盛り!いっぱい食べたい!いっぱい!」と「鯖塩定食をお願いします(シュッ」ではスマートさが全く違う。我々も生涯消費者であるのならば「消費者として周りからどう見られているのか」という体面もこれからは必要になってくると感じる訳で、自分で金を払い、飯を食う場面にそこで「焼き魚を食う」という選択が出来るのは、やはり一流の人間だけだ、とも思うのである。



ただ「外食に行って肉を食わないなんて根っからの低所得者なのだろうか」などと思われる可能性も無きにしも非ず。「焼き魚」というのはどうも所得が少ない人間の香りがしていただけない、という側面も付きまとう。魚が駄目だとすればやはり「野菜」だろうか。しかし、バーニャカウダを食うブスは通常の数百倍はブスに見える事もあり、「ルックスやオーラが伴わない人間が食う物では無い」というのが野菜でもある。ブスに食われるバーニャカウダも可哀想、バーニャカウダを食うブスも可哀想、田舎にひっそりと暮らし清貧を良しと捉え何代も続いている土地を守り続けている出荷元の農家の老夫婦も可哀想。こんなにもlose-loseの関係性にある地獄絵図を招く食べ物などあってはならない。我々はバーニャカウダをブスに食わせる事で農家の老夫婦を悲しませる事など必ずや回避しなければならない。「ベジタリアン」を名乗るのにもある一定の評判が必要とあってはそんな物こっちから願い下げだ。舐めているのか。


肉も食えない、魚も食えない、野菜も食えない...食う物が無くなってしまった。何という仕打ちだ。神は私に飢えて死ねと言うのか。この際、ここいらで私は霞でも食うか、と思ったが何だかこれで終わると落語のオチの様でとても気持ちが悪い。今からハーゲンダッツを食べます。私はハーゲンダッツを食べます!ハーゲンダッツおいしい!おしまい!