無くなる意思

「存在」というのは実に不確かな物だ。
「そこに今いる」という事だけでは、第三者が「それを存在として認識する」という理由には、とてもじゃないがなり得ない。それが目に見えない「気持ち」なんて言う物だったりすれば尚更である。居ても居なくても良い様な「存在」が、私たちの日常生活には掃いて捨てるほどにある訳だが、しかし、何時の間にか「個人の心の中に居場所を作ってもらう」という事の大変さと重大さを、意外に忘れてしまいがちになるから人間はポンコツだ。思えば、目に見える物も目に見えない物も、これまでの人生、結果的に見れば丁重に扱えた試しが無いような気がするのは私だけだろうか。何時の間にか受け入れてもらう事に慣れすぎて居て、気持ちの機微に鈍感になる。「無くなってからその存在の有り難みを知る」というありふれたストーリーも、結構身近に各々思う所がある、という事もまた事実なのではないだろうか。



受け入れてもらって当然、という価値観の下で暮らす事が出来た少年時代は実に恵まれていた。大人になるに連れ、「言葉」というツールを使い、自分の気持ちを表明しなければ存在するも認識しても貰えない、という憂き目に我々は合い続けているわけだが、「子供」という未熟な、しかも目に見えて未発達だと分かる存在は別だ。言葉も使わなくて良い、意思も表明しなくていい。回転寿司屋さんでも「ネギトロ」「サーモン」とでも小声で言えばお母さん伝で店員さんに話が伝わり、自動的にネギトロとサーモンが目の前に現れてくれる。私も子供時代に戻りたいと懇願するばかりだが、今、それを母に言ってもネギトロとサーモンが出てくるばかりか「その前に少しくらい家に金を入れろ」と逆に金銭を要求される。どうしてこんな事になってしまったのだろう。その金で母は回転寿司でも食いに行くのだろうか。母は寿司屋でネギトロとサーモンを食いながら、私の子供の頃の面影を思い出したりするのだろうか。悲しい話だ。



集団生活においても、「意思」という精神面での存在を表明出来なければ、他人に認識してもらう、など夢のまた夢。箸にも棒にもかかってくれないだろう。意思を表明し合い、存在を認め合う。そういった繰り返しで、人々は認識し合い、同性同士であれば良き友人となり、異性同士であれば、最良のパートナーとなり、結婚し、子供を作り、そしてその子供は寿司屋でネギトロとサーモンを食らう。回転寿司屋で干からびたネギトロとサーモンを口にしたく無ければ、店員さんに注文を取らなくてはならない様に、「意思」を表明するには「言葉」という道具を使用しなければならない。



しかし、「言葉にならない気持ち」という物がもっと尊重される世の中であれば、と考える事はよくあるが、なかなかそう上手くはいってくれない。存在の認識をして貰えなければ、最早「そこに始めからいなかった」様な物。「私と2人きりだったのに別の第3者が来た途端口を開きこれでもかと愛想を振りまきながら喋り出す女」や「私の姿を平日の昼間に見かけた途端に絶句する家に遊びに来たおばあちゃんの友達」などなど、「私はここにいます!私はここにいます!」とでも四六時中叫んでいなければ無視されがちになってしまう様なあやふやな存在は、果たして認識し、認識される事の繰り返しのこの世の中を生き抜く事は可能なのだろうか。



とりあえず、現段階で私が存在を証明すべく、表明したい意思は「ネギトロとサーモンが食いたい!」である。なんだか書いている内に食いたくなってしまった。母親にお小遣いをせびりたいが、寿司屋に行くと私は幼少時しか本当にコレしか食べていなかったので、「寿司屋に行きたい」と実行に移せば、今度は母親の中で幼少時の私の存在がボンヤリと浮かんでくるのだろう。コレばかりは「私にはどうしようも出来ない」という、モヤモヤとした「言葉にならない気持ち」が募るばかりなのである。