反論の余地

物事には「方向」という物がある。
こちらに向かってくる物、こちらが投げかける現象、または全く関係の無い方向に向かって行く事柄。形ある物も、そうで無い物も。この世は発信される何かと、受け取る何かで溢れている。例えば、道路標識の様に個々人から発せられる「方向」が可視化出来たとすれば、この視界は矢印だらけで塞がってしまうだろう。命ある物無い物も、何かを発信し、それを受け取っている事には変わりない。コール&レスポンスとでも言うのだろうか、時にその方向のやり取りがとても面倒に感じる事はある訳だが、相手に意識がある場合、それすらも「面倒臭そうだなコイツ」という意思が方向として伝わってしまうのだから、何とも辛い。「自動的」というのはドアに代表される様に、怠惰を好む私としては人類が考え出した最高の英知だとは思うが、融通が効かないというのは唯一にして最大のウイークポイントだ。惜しい。



それに比べて命無い物の相手というのは何とも気楽で良い。「ミスドのコーヒーの飲み過ぎで腹が捩れる程に痛い。畜生。」というこの気持ちも、ミスドの真っ赤なマグカップは真摯に、そして誠実にこの矢印を黙って受け取ってくれる。しかし、腸の「トイレに行け」という私への矢印は何とも無視が出来ない。リサイクルマークの様に、私の腸内では矢印が渦巻いている事だろう。意思ある物の相手はコレだから困る。意思があるのだから、もっと賢く、都合が良い様に振舞えるだろうに。



「一方通行」というのはしかし楽な物である。車を運転していてもそうだし、価値観が一つの見方しか無ければ楽であるとも感じるし、誰かに気持ちをぶつける時だって「相手の反論が100%無い」という確信があれば、罵詈雑言も捗る事だろう。言葉とはやはり難しい物で、「自分の気持ちを言語化する」という行為ですら億劫に感じるのに、それに加えて「出来るだけ相手を尊重する」という検問も通さなければならない。「相手がここにいる」という「存在」すらも「矢印」として私達に訴えてきたり、気を使ったりして、受け止めなければ円滑な人間関係は構築できない。



「反論」を恐れる様になったのはいつ頃であっただろうか。脊髄反射で言葉を紡ぐ様な人性を送ってきた私としては相手に反論され、打ち負かされるという事が多々にあった様に感じる。例えば、つい先ほど投げかけられた「コーヒーのおかわりは如何ですか?」というミスド店員さんの一声。正直、私の腸内は悲鳴をあげている。「おかわり自由」という甘美な6文字に魅了されたはいいが、いかんせん脊髄反射で受け答えをするというオートマ機能が私には搭載されているのでガブガブ飲み続け、気付いたらもう7杯は飲んでいた。反論は私自身から発せられる。
「どうしてこんな事になったのか」せっかく大企業ミスタードーナツ様の店員様が来て頂いたのだから、おかわりを断るのは失礼という物だ。
「では飲まなければいいではないか」コーヒーを飲むという行為自体、私には未だに大人な香りがして、そんな自分に私は負けたくないのだ。
「お前は馬鹿なのか」



...言い返せない。もう私には脳内から引っ張りだせる語彙の弾薬は切れてしまった。自分にすら反論が出来ない。そんな人間が他人の「反論」という矢印を捻じ曲げ、ポキリと折る様な言葉を紡げるなど到底不可能なのではないか!しかし、大の大人が自分の気持ちを言葉として表明出来ない、という事があってはならないだろう。反論に反論を重ね、「意思」という矢印を相手にぶつける。その応酬の繰り返しが、刃物の様に鋭い確固たる槍の様な「揺るぎない自分」という物を、いつか手に出来る為の第一歩となるのではないだろうか!


...15分経った。私は今、車の中で以下の文章を書いた。8杯目のコーヒーを流し込んだ後、おかわりを勧められる前に、ミスタードーナツを飛び出た。車内は「どうしてお前はそんな人間なのか」という先程の行動への批判で埋れかかっている。もしも「意思」の矢印が可視化出来ていたら、恐らくそれが静まるまで前が見えず、私は運転が出来ずにいただろう。その矢印がストレスとなって、コーヒーの飲み過ぎとなって、胃に穴を空けない事を祈るばかりだ。腹が痛い。