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手ぐすねを引く負のオーラ

「自分と向き合う」という事が人間が成長していく為の必須科目の様に思われて久しい。
自分の心という「原点」に立ち帰る事で、社会という物と関わり合う事で磨り減っていった「自分の気持ち」をもう一度思い出したり、目を逸らしていた辛い事や苦しい事ともう一度向き合い、自分の中で納得のいく決着を付けたりする事を「成長」と世論が決めるのならそうなのだろう。



後悔や苦しみを感じる事が人生の常であるのならば、「意識」を持たされた人間としてその行為は義務の様な物。ある程度育った人間が布団の中で過去の恥ずかしい己の言動に「ウゥウアアア」と呻きながら、何十往復もゴロゴロバッタンと心を火焙りでもかけられている様な心境と共に苦しみ悶えるのも義務なのだ。勿論、黒歴史黒歴史と過去の自分への殺人衝動に駆られるのも義務だ。だとしたら、私のこの文章も義務の一部に入るのだろう。残虐非道とはこの事だ。情けも容赦も無い!神はなんという苦行を人間に課したのだ!



一つの嘘をついたら百の嘘で取り繕う様な人生を送ってきた身としては、やはり過去という物は取り繕うとすればするほど手が付けられなくなっていく、という事を骨の髄まで染み込む程に理解している。
「あの時こうしていればよかった」「あの選択さえ間違えていなければ」と過去を悔やむ「今」を過ごし、「「あの時こうしていればよかった」「あの選択さえ間違えていなければ」等と考えている暇があったらもっと今と未来のことについて考えるべきであった」という「未来」に「今」を過ごす。そんなダメ人生無限ループの始まりは一体どこから始まっていたのだろうか。最早検討も付かない程に遠い話である。いっそ「産まれた時からである」との天啓が落ちてこないかと懇願したい程だ。コレならば「では産んだ両親が悪い」と結論付ける事が出来る。



向き合う自分はどこに行ってしまったのか。これは命題である。
「自己」を写す鏡を突き合わせても突き合わせても、写るのは「向き合うべき自分」で無く「克服出来るとすでに決まっているおざなりのコンプレックス」でも無ければ「心を曝け出す事で支えてくれる人に依存しようと試みる下心」でも無い、俗に言う「負のオーラ」と呼ばれる黒い靄だけ。
もう少し覗き込もうとすれば「小6で女子に泣かされた時の涙」や「私の物だけやけに唾がすぐ溜まるリコーダー」といった嫌な思い出の結晶体しか出てこない。「鏡を合わせると7枚目には自分の死んだ顔が写る」という怪談話があるが、アレは私の話だったのではないか、と疑うくらいである。聞いて欲しい。アレは死人では無い。アレは私の血の通った「表情」だ。もうあまり驚かないで欲しい。頼む。



過去において、仕事であったり恋愛であったり人間関係であったりで思う所、考える所が積もりに積もって「向き合う自分」という物が出来ていくのであれば、私には圧倒的に「人生における経験が足りない」という事になるのだろう。確かに私は若者における、いや人生における重要なイベントを何一つ消化しきれず大人になってしまった、という後悔はある。青春もコレといって無かったし、ハチミツとクローバーに憧れて入学した大学生活も何の感慨も無くスッと終わった。



始めから向き合う自分などいなかったのか、はたまた何かをキッカケにして忽然と姿を消したのか。しかし居なくなったとして、気持ちは分からないでも無い。周りの人間達は弱かった自分を克服したり、学生らしく恋愛のいざこざで少女は大人の女性になっていったりして「自分自身」を積み重ねて形成していくのに対して、コイツときたらシャーペンの分解のタイムアタックや親父のBUBUKAを何とか暴露ずに自分のコレクションとして掠め取れないかと思索するばかりで、いつまでたってもゴミの様な自分自身を積み重ねていくばかりであった。



そうだ、私はやはり「向き合うべき自分」をいない事を嘆く様な立場の人間では無い。全ては私の責任であったのだ。自分自身がいないという事の見返りが「シャーペンの分解がちょっと人より速い」と「BUBUKAの思い出」だけでは悲しすぎるではないか!過ぎ行く時間の果てに、多感な思春期を終えた私が手にしたのはシャーペンとBUBUKA。自己を写す鏡に写るのはシャーペンとBUBUKA。2つともコンビニで買えるので気が向いたら是非買ってみてください、特に何も思いません。