絵で図解する当時の子供の在り方

小学校の思い出として、僕の中で鮮明に記憶に残ってる出来事の中でも(このブログに書くことで人前にも出せる内容で、という制約はつくが)印象に残っている思い出の一つが「烏骨鶏飼育」だ。授業の一環として子供達に動物を飼わせることでいのちの大事さを云々、ということだったのだろうが、とにかく、小学校一年生の頃に半年間だけ鳥骨鶏がやってくることになっていた。


その報せに我が一年二組はざわめきたった。「鶏がやってくる!」テンション上がりっぱなしだ。「みんなのペットだ!」「かわいがろうね!」勿論僕も喜んだ。「とにかくやったー!」と当時の子供にしてもなんとも馬鹿な台詞と共に皆と一緒に騒ぎ、とにかくはしゃいだ。なんせ皆「鳥骨鶏」がどの様な外装をしているのかを知らなかった。当時はネットもほとんど普及もしていなかったし、鳥の図鑑なんてのも図書館には置いていなかった。頭の中で鳥骨鶏像を膨らませていくしかなかったのだ。こういう時にはクラスで知ったかぶりをする奴が率先して嘘を言う。「親戚のおじさんが飼ってる」「僕の家にも鳥骨鶏がおじさんに連れられて来たことがあるけどすごくおとなしくてかわいい」この一言で皆大盛り上がりだ。そして、この時の盛り上がりが、ある悲劇をも生むことになったのだ。


その時と同じくして、「いちねんせいのおもいで」という様な全校生徒の前で一年生達が季節ごとに行われた行事を絵と共に思い出という形で発表するのでその係を決める、という学級会が開かれていた。当然「鳥骨鶏の絵を描く係」は相当な人気が集まり、「こいのぼり作り」や「豆工場への社会化見学」「外国人の英語教師のジェフ先生が我が学校に赴任」なんかは全く人がよりつかなかった。結局、倍率10倍を超える鳥骨鶏係はじゃんけんによって決められ、負けたものが屈辱の「ジェフの似顔絵」を書くハメとなった。(ジェフ先生ごめんなさい)


そして別段絵も上手くも無い癖にこういう時に限ってじゃんけんに勝ってしまうのが僕の悪運の強さというか何と言うか。クラス中の大ブーイングと共に「鳥骨鶏を書く係」は僕に決まることになった。


そしてそんなこんなで月日は流れ、鳥骨鶏ご本人様が軽トラックからご登場、と相成る訳であったが、鳥骨鶏を見たことがある人は決して女子達が「かわいいー」という歓声をあげるような装いをしていないことは明白なはずだ。まあその鳥骨鶏達のグロテスクなことグロテスクなこと。しかも雛ではなくほとんど成長しきっているまでに体が大きかったので、僕達小学一年生の体と比べても、あまり見劣りしないほどの図体のデカさ。テンション駄々下がりの中「ま、まあ皆飼っているうちに可愛く思えてくるよ!」という声もブスだけど背だけはスラッと高い岡田さんの「いやあああああああああああこないでえああああああ」という鳥骨鶏達に追いかけられる事で発生した悲鳴で聞こえなかった。


夏休みに入っても当然僕ら一年生が当番を交代で担当することになったのだが(そのときに「餌を一ヶ月分予め飼育小屋に放置しておいて鳥達が勝手に食べれば僕たちは面倒みなくていいとおもいまーす」と言い放った木戸君の話はまた今度)その暑くてそれでいて臭くて、それでいて鳥骨鶏が怖い、飼育小屋掃除の面倒なこと面倒なこと。鳥骨鶏たちにしてみれば「俺達はただただ生きているだけだっつーの!」と言うところだろうが、それでも僕の鳥骨鶏株はその一ヶ月で一気に下がっていった。


そして夏休みが終わり2学期。件の「いちねんせいのおもいで」に向け着々と準備を進めていく他の生徒達だったが、どうも僕は筆が進まない。嫌いで怖いものの絵を何故書けるというのか。あの時、何故じゃんけんで負けなかったのかと非常に悔やんだ。僕もジェフ先生の似顔絵を書きたかった。だってジェフ先生は臭くないしトサカを震わせたグロテスクな顔で長身でスタイルはいいけどブスな岡田さんを追い掛け回したりしない。そんな嫌な思い出は僕はジェフ先生には持っていない。絵も変にリアルに書けば「何で変にリアルなの?」と却下され、デフォルトして可愛く書いてみると「何で可愛いの?」と却下される。図工の先生に手伝ってもらったりして何とか書き上げたが、それでもクラスの皆には「こんなんじゃない」と言われたし、僕もこんなんじゃない、と思った。なんなら、途中から存在もしない架空の鶏を書いていた気もする。


そうやって発表当日。「いちねんせいのおもいでー!ぼくたちはーわたしたちはーうこっけいをー!かいましたー!」という声の元、あらわになったのは見たことも無い「ぼくのかんがえたさいきょうのとり」。その発表会は父兄も招待される会だったので、母親がビデオを回してその様子を録画していた。僕の登場シーンだけは恥ずかしくて見ていられないという。そりゃそうだ。